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人生には、多くの別れがあります。
一生の中で「別れ」を一つも迎えない人は恐らくいないはず。
それでも、だからこそ、私たちは「永遠」を望んでしまうのかもしれません。
例に漏れず、私もそのひとり。
家族や友人をはじめとする、「愛する人」との永遠を願わずにはいられません。
本記事では、そんないかにも人間らしい私の気づきのシェアが、みなさまの「愛する人」と過ごす時間についてを再考する機会になりますと幸いです。
強く願っていた「永遠」
私が経験してきた別れの中で最も大きなインパクトがあったのは、死別です。
大学生時代、大好きな祖父の突然死に直面した私は、それを受け容れることができませんでした。
1週間前に笑って一緒に食事をしていた祖父が亡くなったことを1本の電話で知らされた時、身体の感覚が無くなるほどの衝撃を受けました。
こんなに泣いても涙は枯れないのかと思うくらい泣き通し、「いつも通り」を取り戻すのには数ヶ月を要しました。
「なぜ人は死別しなくてはならないのか?」
「『永遠の別れ』とは何を意味するのか?」
「私と故人との繋がりはどうなるのか?」
尽きない問いが、頭の中を巡りつづけました。
答えを求めて本を読み漁っても、どこにも答えはありませんでした。
当時の私は、その経験を経て、限りなく後悔しない選択を積み重ねていくしかできることはないと(前向きな)妥協をすることになります。
私は、その後も変わらず、
「愛する人には、ずっと元気に生きていてほしい。」
「愛する人とずっと一緒に過ごしたい。」
という生身の人間である限り叶うことのない、だけど何よりも強い願いと向き合ってきたように思います。
そんな私は、自分そのもの永遠を最も望んでいました。
それらの願いが一瞬にして全て奪われる「自分の死」が、最も怖いものだったのです。
「いつ死んでもいい」と思えた日
そこから一転「いつ死んでもいいな」と思える日が、突然やってきます。
これを伝えると、人生に希望を持てなくなってしまったのかと相手を不安にさせてしまうのですが、全く違います。かなりポジティブです。
むしろ、「死にたい」という類のものとは対極にあると言っても良いような感覚。
「死にたくない」と思っていた当時より「生」の感覚が近くにあります。
死を受け容れるということはこういうことなのかもしれないとも思いました。
変化に驚きながら、その理由を考えてみて気づいたことは、「私は、いつ死んでも『最高の人生だった』と言える今を生きている」ということでした。
残してきたものが何かとか、手に入れたものが何かとかではなく、「たった今」最高に幸せな瞬間を生きている。
私は今、いつ別れを迎えても、私にとって最高に幸せな人生だったと胸を張って言えるのです。
私たちは常に「永遠」の中にいる
そう思える自分に気づいた時、私がずっと望んできた永遠は「今」なのだと認識することができました。
私たちの生命や関係性は、生から死に流れていくのではなく始まりから終わりに流れていくのでもなく、生と死の間にある今が続いていて始まりと終わりの間にある今が続いているのです。
間という表現が正しいのか、パラレルという表現が正しいのか、はたまた他の表現があるのかは分かりません。
ただ、「今この瞬間」が永遠なことは確かだとそう思えたのです。
例えば、余命宣告された人が死を意識しながら「余命」と呼ばれる期間を生きている間にも、突然の事故で亡くなる人が存在します。
認識的であるかないかは別問題として、別れは常に「隣り合わせにある」という捉え方のほうが真理に近いのではないかと私は考えています。
私が小さい頃からほしかった愛する人たちとの「永遠」は、「たった今この瞬間」にある。
そう気づいてからの私は、「今この瞬間」に対してどれだけ深く、集中していられるかにこだわって毎日を過ごしたいと思っています。
私たちはそうすることでしか、「永遠」を手に入れられないとも思っています。
「永遠」を望む愛する人と、あなたは今この瞬間をどう生きていきたいか?
ぜひこの機会に考えてみてください。
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執筆・編集:池田瑞姫
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バナー画像撮影:石積真理恵
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